駒鳥です。
先日の記事なんですが。。
福島のデマに繋がったコミュニケーションのずれについて考える
この時に書いたないように加えて、もう一つ思ったことがあります。
話が飛んじゃうので記載していなかったのですが、今日になってみると、佐々木俊尚さんのツイートでも言及されていました。
これを読んで痛切に思うのは、日本に定着してしまったゼロリスクという観念を解体するのがいかに困難であるかということです。マスコミが本当は重大な役割を持つと思うんだけどね…。/なぜ福島デマが残り続けるのか?専門家が勘違いしてたこと https://t.co/yzXJ4ZbFMI
— 佐々木俊尚 (@sasakitoshinao) 2017年3月6日
幻想のゼロリスク
潔癖というか、完璧すぎる安全性を求める声って結構よく聞こえてくる気がします。
安全率100%じゃないとだめ、というような声ですね。
やっぱり、特に大震災、福島の原発事故以降、放射能に関して、数値が0じゃないと認められない、という過激な意見はよく聞こえてきますね。
でも完全なゼロリスクなんて間違いなく幻想です。
生きている限り、周りには必ずリスクが存在します。
例えば、会社に出かけようと思って家を出れば、交通事故に遭うかもしれない。
何気なく飲んだ水だって、一応致死量とかりますしね。
そんなこと考えてたらキリがない、という感覚は当然だなと感じるのですが、ある特定の分野については、ゼロじゃないとだめ、という論調は結構根強く、福島に対する差別に繋がっているように感じます。
リスクと折り合いを付ける
日常の中に必ずリスクが潜む以上、ある程度は折り合いを付けていくしかないんだろうなーと感じます。
車社会のリスク、というのは色々あるのですが、車を使えなくなったら社会としては困る訳で、そこは折り合いを付けて車を使うしかない。
個人のレベルでも、それと同じ感覚がもっと必要なんだろうと思います。
普段口にするものも、極端なオーガニック主義に走るのでなく、うまく利便性を享受したい。
リスクを何でも受け入れるのではなく、何事もバランスが大事ですね。
それでは。
スポンサーリンク
コメント